
【第24回6月29日分】「特異点」ディスカバリー部門 エントリー
令和哲学
AWARD
特異点ディスカバリー部門

島崎 信也さん
今日の特異点
瓶鳥の中にいる人からの質問「何故、どうして、生きる必要があるの?」に対して、瓶鳥の外にいる皆さんならどう対応するのか?
令和哲学者の対応に私は胸を打たれました。
「この質問には答えをしちゃダメなの」
「何故、生きる必要があるのか?ではなくて、どう生きたいのか?だよ」
一瞬、キョトンとしました。
「付き合わなくていいんだよ、瓶鳥の中の質問に。考えグルグルの世界だから」
聞きながらハッとした事があります。
瓶鳥の中の世界は、争いが絶えないという事。知っている事で、戦争までしてしまうという事。
令和哲学カフェで学んだ事でした。
認識主体と認識形式(観点)が出会って、認識の結果物が生まれる事。哲学と科学との違い、カントとカントまでの哲学者の違い、そこに価値を感じていました。
超越的な瓶鳥の外。
そう在りたい。
Noh先生の質問は、瓶鳥の外にいるあなたが質問されたら、というものでしたが、質問に付き合ってしまう事で、自ら(気付かずに)瓶鳥の中の世界に入り込んでしまう。また瓶鳥の中に戻ってしまい、行きつくところは騙す騙されるゲーム。
そして質問者は瓶鳥の中。
質問者と戦う。
そんな修羅の世界までが想像されました。
人間は一人では生きていけない。身近で親しい人から質問を投げられる事がある。
その時、どう対応すれば良いのか?
そこで、思い返される言葉。
「この質問には答えをしちゃダメなの」
「何故、生きる必要があるのか?ではなくて、どう生きたいのか?だよ」
まるで自問自答に思えました。
どう生きたいのか、とは正に瓶鳥の外にいる存在にとって必要な問いでもあり、その問いと付き合う。瓶鳥の中の質問と付き合うよりも、瓶鳥の外で働く質問と付き合っていたい、と。そう思いました。結果的に、瓶鳥の中にいる質問者さえも瓶鳥の外にいる可能性として接しているのだな、とも。
Noh先生の対応からは、瓶鳥の外にいる人の不動の姿勢を感じた気がして、この事に胸を打たれたのです。
私が知っている事は一つもない。ただ、知ってる世界での質問が飛び交うとき、同時に本当に付き合うべき質問と親身でありたい、そのように生きたいと、思いました。
そうした生きる姿勢が、質問者との関係を尊厳関係へと進めていく出発となる気がしましたが、実際に尊厳関係へと展開するにはどの様なシナリオとして描き得るのかを、今からの学びに期待できそうだとワクワクしています。
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