第107回 10/27 フッサールと令和哲学(5) 開催レポート


第107回令和哲学カフェ
フッサールと令和哲学(5)

2020年10月27日(火)21:00~22:30

開催レポート

「フッサールと令和哲学」5日目の開催レポートです。
今回はノさんよりまとめの講義と質問道場が行われました。

その内容の一部を紹介します。

現象学で最も重要視するのが自然的姿勢態度。人間は「この体が自分だ」と思い、自分の体と環境、自分の意識と対象は分離していると当たり前に考えている。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」も、思っている自分と存在している自分の間には分離があり、二元論になっている。
この姿勢態度を変えることを主張するのが現象学。しかしそれはイスラム教徒がキリスト教徒に改宗するよりも難しい。
目でみて現象学を理解しようとするのは不可能。主語・述語がない、時間・空間・存在・エネルギーもない、宇宙(瓶鳥)の外の世界からすべてを整理することが必要。
二元論を否定したフッサールは「エポケー」と表現し、現象を理解するためには判断停止して、現象学的還元から原因を追求することだと言っていた。
しかし「純粋意識」「超越的還元の世界」、すなわち、令和哲学で言う「源泉的動き」だけが実在する世界を明確には定義することはできなかった。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、令和哲学で解析すれば、「心の世界には物質が存在不可能で、存在不可能なところで思うことができる」という結論を出している。
心と物質が分離した世界をどう統一するのかの問題に対して、源泉的動き「1」が夢をみていると解析し、それがどのような仕組みであるのかも明確に説明しているのが令和哲学。それを通して、デカルトの論理も証明しながら、二言論を一元論で理解することができる。

<質問コーナー ※一部抜粋>
Q:哲学とはなぜ実践行動なのですか?
A:これは重要な質問。主語・述語があるのは哲学ではない、それは科学技術の領域。哲学は主語・述語がない世界。だからカントの判断力批判までくる。判断不可能。荘厳で崇高、凄すぎる。
石が人間になってロケットになって地球から月へ行って火星まで行って戻る、そんな夢を見ていると思ったら凄い。不可能なこと。それより9000兆倍不可能な世界が「1」。無境界線、無ポジション、スピードが速すぎる。主語・述語がない、描けない。だから実践行動しかない。

参加者の感想

死ぬまでに手に入れたい2つのこと。自然と涙が出るくらい感動しました。境界線がない、自分が好きで好きでたまらない、心の自分、不動心。人間が究極欲しい、手に入れたいことなのだからなのでしょうね。忘れられない回になりました。(かなえどんさん)

まとめが濃厚で、わかりやすく感動でした。哲学は実践!机上の学びを超えて、日常に使えるとか小さなレベルではなく、人類の生き方を大反転させる令和哲学なんだとあらためて感じられました。2021年からは結果物が出せるよう私自身もがんばろうと思いました。 ありがとうございました。(chicoさん)

まとめをきいて、フッサールの言う超越的還元までバックしないと人間は完全にすっきりできない、でもその世界は人間の意識からは届かない全く別の次元にある、それをつなげて届くようにしてしまったのが令和哲学なんだ、と感動しました。(みなみかさん)     

このスケール感、大好きです。主語・述語が消える世界。 哲学のみならず、心の世界(虚数i)と数学、物理学、陰陽五行、宗教などなど、さすが統合学。人間歴史が一気にひもとかれ、過去の偉人たちの息づかいが今ここ、聞こえるかのように命を吹き込む。Nohさんの解析をいつも楽しみにみています。(2Rainbow_Colorさん)


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