【第63回8月24日分】「特異点」ディスカバリー部門 エントリー


令和哲学
AWARD

特異点ディスカバリー部門

Sayaka Ushida

牛田 彩也香さん

今日の特異点

8月24日第63回
テーマ「ドゥルーズと思考」の3日目。

ノ先生から出された、表現とはなんなのか?
というテーマについてディスカションから始まりました。

私の中で表現と聞くと、話す、踊る、歌うなどのイメージが強いのですが、
きっといろんなイメージがでてくるだろうと楽しみに聞いていました。

出演者の皆さんからは、
・動き(ぬくこ)
・裏に隠れているすべて(ひろなり)
・自己アイデンティティの規定(しおみさん)
・存在したい欲求(あっきー)
・今ここ(ながっち)
というイメージがでていました。

WHTを通してみんながイメージを語り、お互いにずれを明確にすることでみんなの主義主張がどんなことなのかがみえてくるのがとても面白いと思いました。
面白かったポイントとしては、
3人(ぬくこ、ひろなり、ながっち)はドゥルーズ哲学で、表現の主体の誰が表現するというところの誰がを優先していて、2人(あっきー、しおみさん)がカント哲学で、表現の結果物、対象物を表現をしている。
という、ディファインで整理できるということでした。

ただ、
しおみさんの言っているアイデンティティの規定は本人のイメージでは、固定されない動きのイメージだったとのこと。
周りからのディファインとズレがあることもしっかり主張していたのも主張を理解するために良かったと思います。

最後の融合がきれいにまとまったのは、みんなが主張しあいイメージが深まっていたからだと感じました。

まとめとして、ノ先生がドゥルーズ哲学の観点からこの5人の観点を整理した内容が興味深かったので、私が気になったポイントを書いておきます。

まず、どう整理したらドゥルーズ哲学になるのかというと、宇宙が生まれたり、消えたりするこの動きをみることができるのがドゥルーズだということ。

なので、ドゥルーズからみれば、源泉的動き、瓶の外は存在不可能状態で、存在したい欲求があるから思い込むしかない。そこから、アイデンティティを規定して私はこうだと、体系を固定する世界がある。

その動きからすべてが諸行無常であることがわかると、人間アイデンティティ固定だけでは問題だと気づき悟る。
だから諸行無常で、違いを生成し続ける。そのことを気づいて違いの哲学にいけば、裏に隠れているすべて、潜在的意味、すべてが今ここに展開している。それが自分がみている映像であり、自分の宇宙である。

ここで気を付けることは、私たちが体の目でみている現実的なもの、例えば、紫のペンをペンだと、これを表現だと思うことは、ドゥルーズ哲学からみたら一番気を付けることである。内容自体が模様形であらわせたり、言語であらわせてしまうものは表現ではない。ドゥルーズが言っている表現とは全部であり、境界線全てがない状態。

境界線にクローズされてしまえばそれは表現ではなく、言語の約束体系で束縛である。言葉でしゃべれないことは表現されるものであり、言葉でできてしまうことは表現ではない。

それでは、表現とはなにか。
それは、令和哲学での解析で言えば関係場であり、事件の連続。
私たちも事件の流れ、オーケストラで動く中でどんなタイミングで入って自分の楽器をもって演奏するのか。

ドゥルーズが言っている表現とは、
部分の存在にとどまるものではなく、全部がつながって今ここ動いている状態。オーケストラの表現が起きていて、部分の存在は存在しない。境界線が一切ない、全部つながっている巨大なひとつ、過去現在未来が全部一緒に今ここで、オーケストラの演奏をしている状態なのです。

この内容をきいて、表現のイメージがガラッと変わりました。
以前は、表現ができることが〇で、表現ができないことは×。
という判断基準だったので、
表現できるようにならなきゃ、主張してしゃべれるようにならなきゃとよく思っていたんですが、それは思い込みの主体の×から〇の小さな意識だったなと感じました。

いままでのように個の私がどうにか表現しようと頑張るのではなく、境界線がなく全てが自分になっていったときにチームプレーで表現が花咲いていく世界だと思いました。最高の表現ができる道が令和哲学にあるんですね。

これからも令和哲学カフェで深めていきたいと思います。

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