「特異点」ディスカバリー部門 エントリー【第22回6月25日分】
令和哲学AWARD
「特異点」ディスカバリー部門
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令和哲学cafe、ここに来ると意識が拡がる。
毎回、ファシリテーターであるノジェス氏の投げかける「問い」が、意識への働きかけをしているのが分かる。
明確な答えが分かっている者にしか繰り出すことのできない「問い」。。。人はいかに質の高い「問い」に出会うかによって、人生の質が決まると言っても過言ではない。第22回目の問いは、「考えの出発」についてであった。
人間は誰もが考えている。朝起きて寝るまでの間、深い浅いの違いはあっても考えている。そして今この瞬間も考えている。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と、考えるからこそ自分は存在するとまで表現したように、人間にとって考えとはとてつもなく多くの比重を持ったものである。
令和哲学cafe第20,21回は 、考えの「素材」「仕組み」「目的」について思考を深めていったが、第22回の本日は、さらに核心を突いてくる問いが放たれた。「考えの出発点とはなにか?」
考えの出発点?、、、考えとは、考えが考えを生み、考えの連鎖反応を起こし続けるものである。そうやって私たちは考えを紡いでいき、今ここの考えに捕らわれているのが一般的な人間の思考である。そんな一方方向の人間の思考ベクトルに、ノジェス氏は真逆から問いを投げてきたのだ。「すべてのものには出発がある。物質は原子の集まりであるが、その原子にも原子番号1のHがあるように、考えにも出発の考えというものがある。それは何か?」と。この問いには度肝を抜かれた。確かに思考は連鎖反応を起こし、積み木のように次から次へと上積みされていく。しかしもし、一番はじめに置く積み木の土台が曖昧であったなら、積み木はどこかで破綻するだろう。考えも同じ道理である。出発の考えがズレていれば、その後に続く考えはすべてがズレ、いずれ考えはループに嵌るか、あるいは破綻する。
そのことをすべて分かり、「考えの出発」を問うなどとは、明確な答えを得た人間にしかできない。答え一つで、その人間の過去・現在・未来をすべて見透かすようなものである。こんな問いを投げることができた人は、人類史上ノジェス氏の他に誰がいたことだろう・・・。私は一人、唸っていた。
そして令和哲学cafeの醍醐味のもう一つは、WHTというコミュニケーションワークである。
今回も、5人の参加者にファシリテーターであるノジェス氏が意見を求めていった。「考えの出発点」に対しての5人の意見は以下である。
ちぐ・・・偉大な歴史を作る思考
あさり・・目の前の人に感動を提供する思考
たまい・・思考自体が感動を生み出すという思考
てる・・・自分の生まれた理由・使命を探す思考
白蓮・・・知ってることから自由になるという思考
それぞれが自分の意見に対しての論理を繰り広げながら、相手を論破したり、共通点を融合させてみたり、はたまたお互いの感情を推測してみたりしながら思考を深めていった。人の数だけ観点があり、参加者の意見を共に考え、共に相手の気持ちを推し量り、二重にも三重にも思考や感覚が深まる不思議なコミュニケーションワークである。
5つのバラバラの観点を深掘りしていき、究極は「瓶鳥の外」に出してしまうというファシリテートは、カント哲学でいうところの「認識主体」
「認識対象」「認識形式」を「1」なるもので貫いてしまう実践哲学『令和哲学』の醍醐味なのだろう。
人類史で名を残した哲学の中心を貫く、それは哲学完成と呼ぶのに相応しいと、深い感動を覚えた1日だった。
AWARD
特異点ディスカバリー部門
長岡 美妃さん
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