【第143回12月22日分】「特異点」ディスカバリー部門 エントリー


令和哲学
AWARD

特異点ディスカバリー部門

熊 さゆか さん

今日の特異点

勝又保吉さん(やっさん)の自然的態度の見つけ方2日目。

この日はファシリテーターやっさんの、
前日に起きた内面的なシェアから始まった。

「へぇ、そんなこと思ってたんだ!」と
受け入れて、理解が起こる。

同じ場を共有しているようでも、
一人一人の内側で起こる現実は違う。
その多様さには「そんなこと思うんだ」という驚きがいつもある。
私にはなかった世界がある。

自分の心の動きをありのままに曝け出すのは勇気がいるけれど、
とても美しく、謙虚なことだと思う。
「私には世界はこのように見えています」というシェアには、
その人らしさが浮き彫りになる。

ふつう私たちは、
自分自身の内面を正確に認識できない。
なぜなら
自覚はないけど、
正当化したり美化したりして
歪曲されているからだ。

隠したい弱みは隠そうとし、
触れたくない痛みはなかったことにしたい。
起きたことは誰かのせいにしたいし、
いかに自分は
大き過ぎる出来事によって被害を受けたかを語りがちだ。

それらの
『誰かがいる(自分の他に他人が居る)』『なにかがある(物事がある)』
といったような
『強烈に「ある」と思い込んでいる態度』を、
やっさんは自然的態度だという。

この、
自分が無自覚に持っている自然的態度を
見つけて、
意識化して、
自覚しようとやっさんは提案する。

フッサール流にいえば
『人間の意識は外へ向かう志向性を持っている』ので、
『意識の志向する外界を受け入れるのではなく、自分の意識・内面に着目せよ』
ということだ。
この内面的な純粋意識の事実に立ち返ることを現象学的還元というらしい。

私の理解で言うならば、
自然的態度とは
自分が無自覚に繰り返すパターンの『原因』であり、
無自覚であるゆえに
コントロール不可能なので、
つまり
自分の繰り返すパターンを変えたいと思っても、変えられないということになる。

そもそも、
『他人や物事(現実)が先にあって
後から自分が何かをされている』わけではなくて、
自分の在りよう(自然的態度)が先にあって、
そこから自動的にいつも生み出されてくるのが自分に起こる現実となるからだ。

変えるなら、
先にあるほう(原因)にアプローチすべきだ。

いつもの自然的態度に飲み込まれると、
いつものパターンがもれなく始まる。

意識は外を向き、
思考がグルグル回って
自分勝手に解釈が貼り付けられ
ストーリーに突入する。
感情が作り出されて
ますますドラマチックになるそのストーリーは、
自分を捉えて離さない。

そうやって、いつもの現実が起こってくる。

だからこそ、
ストーリーに飲み込まれていかないために「エポケー(判断停止)」をせよ!
というのだ。
飲み込まれかけたら、留まれ!
そこに、留まれ!!

そしてストーリーではなく、
自分の内面を見よ!!と。

令和哲学カフェ内のWHTでは、
「生きたまま死んだ体験を語ってください」というやっさんのお題に、
こうたさんの
死を身近に感じた体験がシェアされた。

死に対する、参加者それぞれのイメージの違い。
死という強烈なテーマに
ストーリーが始まった場に対して
やっさんは勇気を持って「エポケー」した。

そこから、こうたさんは
自分の中にあった、お母さんとの体験から来る「無力感」に行き当たった。

こうたさんの自然的態度に
「見ぃつけた」と
光が当たったように感じた。

参加者のみなさんのいろんな感情や意見、
思いや表現の渦が起こる中、
ファシリテーターのやっさんも
敢えて一緒に巻き込まれながらカオスに見えた瞬間もある回だったけれど、

それはちょうど
自然的態度のカオスさが表現されていて、
とても面白かったです。

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