【第75回9月9日分】「特異点」ディスカバリー部門 エントリー


令和哲学
AWARD

特異点ディスカバリー部門

Miki Nagaoka 

長岡 美妃さん

今日の特異点

毎日毎日、開催されている『令和哲学カフェ
 
 
 
このカフェは、90分間の「知のK-1」と呼ぶにふさわしい。
 
 
 
その理由は以下である。
 
 
 
始めにファシリテーターの令和哲学者Noh Jesu氏によって、視聴者に向けて問いが投げられゴングが鳴る。その問いはどれを取っても、人類の命題となる珠玉の問い・・・そのAnswerを探す5分という時間が、カフェの90分いや1日の中で最も我が意識を研ぎ澄ませる時間となる。
5分という短時間で、己の人生の経験知識を総動員し脳をフル回転させる。その中で絞り出した一滴のAnswer、それはこの世に顕現した「私」そのもの。
 
 
そしてその「私」を軸に、参加しているゲスト5人のAnswerを聞いていく。それぞれのAnswerは、その人が絞り出す究極の一滴。それはその人の顕れであることが分かる。
 
 
彼らは言語に「自分」を投影し、他者の投影であるそれぞれのAnswerを測っていく。論破または賛同の意見を炸裂させながら、試合は続く。研ぎ澄まされたAnswerには、言語化されるまでの人生の脈絡が炙り出されていく様をみるようだ。
 
 
どうやら、主催者でもありファシリテーターでもあるNoh Jesu氏の「哲学とは行為である。」と言う意味はここにあるようだ。
 
 
このカフェには不思議な力が宿っている。
 
 
表向きは歴代の哲学者を学んでいきながら、単なる知識の学び場ではない。
今ここ、哲学をする場である。日常のマンネリな生活では決してたどり着くことのない脳回路を切り拓き、命の深淵にまで到達させていく。本来、人間はみな哲学者でならねばならなかったのだろうとつくづく思う。
 
 
 
 
人類は知を偏重しすぎた。知へ偏るばかりに、環境汚染や技術の暴走が止まらない昨今である。しかしそれは知を言語のお遊びにし、固定されたものにするからであろう。
 
 
知は固定ではない。知は動きそのもの、行為そのもの。そして哲学とは、散在している知の破片をまとめ上げていくメタ知である。しかし哲学は完成されていないことは、あらゆる学問を一つに統合することが未だにできていないことを見れば分かる。
 
 
令和哲学は、「ここに哲学の完成がある。知の大統合を成し遂げた!」と宣言する。それは「知のK-1」での完全勝利の雄叫びのようにも聞こえる。
 
 
 
誰もが哲学者でならなければ生きていけない時代が来る。活きた知を、活きた場で習得していく令和哲学カフェを利用しない理由はどこにもないと思う。
 

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